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広島地方裁判所 昭和35年(わ)316号 判決

被告人 当麻利男

昭一五・四・二五生 自動車運転者

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は「被告人は、自動車運転者であるが、昭和三四年四月八日午前一一時二〇分頃、小型四輪貨物自動車(広四す〇八三〇号)を運転し、大竹市方面から広島市方面に向け時速約四〇粁で佐伯郡大野町字鳴川八坂隧道(幅員約九、一米)を進行中、反対方向から進行して来る呉市営バスを認め、同隧道内東口附近で離合することとなつたが、このような場合、自動車運転者としては適宜減速徐行し、安全な間隔を保持して進行し、苟しくもその進路内に立入ることのないよう注意し、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、何らの措置をとることなく漫然進行を続け、該バスの直前まで接近したとき、操縦を過つて該バスの進路内に突入した過失により、自己の運転する自動車の左側面を該バスの前部に衝突させ、その衝激により、別表一覧表記載のとおり、バスの乗客青木リヨウ外二八名に対し全治まで最低二日より最高三週間の加療を要する傷害を負わせたものである。」というにある。

第三回公判調書中証人石田ワカの供述記載(中略)を各総合すれば、被告人が昭和三四年四月八日午前一一時二〇分頃、トヨペツト一九五七年式小型四輪貨物自動車(広四す〇八三〇号)に空ドラム缶六本を荷台前部に立てこれをゴム紐でしめつけて積載して運転し、広島県佐伯郡大野町字鳴川所在の幅員約九、一メートルの八坂隧道内の、当朝の降雨や同隧道天井から落下する地下水のため路面一体が湿潤していたコンクリート舗装道路の左側を大竹市方面から広島市方面に向け時速約四〇キロメートルで東進中、その反対方向から道路の中央寄りの左側を時速約五〇キロメートルで西進して右隧道内にその東口から入つて来ようとしていた増岡秋人の運転する呉市交通局所属の大型バス(通称呉市営バス、一九五九年式いすず乗合自動車広二あ一五七八号)を認め、同バスと同隧道内の東入口から八ないし九メートルの地点で離合せんとしたところ、被告人の運転する自動車が突然右バスの前面に右向きになつて廻り込んで突入し、被告人の運転する自動車の左側面が同バスの前部に衝突し、その際同バスの右増岡運転手が急制動をかけると同時に左側にハンドルを切つたため同バスの左側前部が隧道左(南側)内壁に激突したが、右各衝撃とこれによつて破壊飛散した同バスの窓ガラスの破片により別表一覧表記載のとおり同バスの乗客のうち青木リヨウほか二八名が全治まで二日間ないし三週間の加療を要する各傷害をそれぞれ負つたこと、右本件事故現場道路については広島県公安委員会による速度制限はなく本件両車輛の最高制限速度は共に毎時五〇キロメートルであつたこと、を認めることができる。

そこで本件事故が被告人の過失によるものであるかどうかについて検討する。検察官は、本件事故は被告人が運転の際常に緊張を保持し、対向車との離合が予知される際には適宜減速する等して安全な間隔を保持して進行し、いやしくも対向車進路内に立入ることのないように注意する業務上の注意義務を果さず、対向車の直前にいたるまで何らの措置をもとらず慢然と進行し、対向してくるバスと離合直前に自己の直前からバスが進行してくるものと錯覚して周章狼狽してハンドルを右に切つたことに起因する旨主張する。

まず、自動車運転者には検察官主張のような業務上の注意義務があるものと解するところ、本件事故直前までの被告人の運転方法について被告人が緊張を保持していなかつたことを認めるに足る確証はなく、また前記認定のように被告人は道路左側を最高制限速度よりも毎時約一〇キロメートル遅い毎時約四〇キロメートルで運転進行していたものであるから、道路中央寄りを被告人の自動車よりも早い毎時約五〇キロメートルで運転進行していた右バスの運転者と対比しても、この点に関し被告人に過失があつたものとは認め難い。

次に、本件事故は被告人が自己の直前からバスが進行してくるものと錯覚し、周章狼狽してハンドルを右に切つたことに起因するかどうかについて判断するに、被告人が周章狼狽してハンドルを右に切つたことを肯認できる確証はなく、かえつて裁判所の検証調書、司法警察員作成の実況見分調書、鑑定人岡本義博作成の鑑定書、当公判廷における鑑定証人岡本義博ならびに証人青木重雄の各供述、被告人の検察官(三通)および司法警察員(二通)に対する各供述調書、当公判廷における被告人の供述を各総合すれば、被告人は右隧道内を東進中前記認定のように自己に対向して進行してくる大型バスを認めたが、事故当時被告人は左側を通行していたのでそのまま自己の進路を進行しておれば右バスと衝突することは考えられなかつたにもかかわらず、右隧道内西口から同東口を見透した場合、同隧道東口から約七〇メートル先(東)は北側(左)にかなりカーブしておるため、右東口から同隧道内に入つてくる車が自己の進路に入つてくるものと錯覚し易い一般的状況にあり、そのうえ本件においては右バスが大型で道路の中央寄り(中央線を多少超えていたと考えられる可能性もないではない)を相当な高速度で対向して隧道内に入つてきたので同バスが自己の進路に入つてくるものと錯覚し衝突の危険を感じると同時にこれを避けるため急制動の処置をとつたところ、被告人運転の自動車は本件事故当日の五日前の昭和三四年四月三日に広島県佐伯郡廿日市町青木モータースにおいて「リヤーアブソバ」の取替えをしておりその際ブレーキの点検をしたが別に異状はなかつたし、本件当時もブレーキの極端な片利きはなく、車輛の整備に落ち度があつたものとは認められないので本件事故当時の積荷の状況とその速度の下においては通常の路面上では急制動をかけても正常に急停車ができ本件のような事故の発生は全く予想されないのに、本件事故現場のコンクリートの路面がいくらか傾斜しているうえにかなり湿潤していたことなどの路面の悪い状態に加えて前示積荷などの力が作用した結果、車輛の不整備によるブレーキの片利きではなく、前後輪の各タイヤと路面とが接する部分の各抵抗に相違を来たして後輪が片利きとなつた―右側後車輪のタイヤと路面との接触部分の抵抗が極端に大となつた―ため被告人の予見に反しその運転する自動車が右バスの直前において右側後車輪を軸にして大きく右に旋回して同バスの前面に突入したものであること、そして被告人が右のように衝突の危険を感じたことが被告人の錯覚であつたとしてもかく感じたことが被告人の不注意に基くものとは認め難く、そしてまたいやしくも危険を感じた場合直ちにこれを避けるための処置をとるのは運転者としての当然の措置であるから本件の場合衝突の危険を感じると同時に被告人が急制動をかけたことは自動車運転者としてとるべき処置をとつたものであつてこの点につき被告人に処置上の過誤があつたものとは考えられないこと、を認めることができる。

そうだとすると、本件事故は被告人が自動車運転者として当然とるべき処置をとつた結果被告人の予期に反して発生した全く偶発的な事故であつたもので被告人の過失によるものではないと認めるのが相当である。

よつて、本件は被告事件が罪とならないときに該当するものとして刑事訴訟法第三三六条前段により、被告人に対し無罪の言渡をする次第である。

(裁判官 渡辺雄 田原潔 池田久次)

別表(略)

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